とりあえず紅茶でも飲もうか、と帰ってきて早々に俺は再びお湯を沸かし、その間に奈緒美は上へ行って服を着替えてきた。
「まだ時間あるんだし、楽な格好でもいいよね?」
といいつつ降りてきた奈緒美の姿は、スウェットのパンツにちょっと大き目のTシャツ。
「いや、それはかまわないけど、いくらなんでもそれはどうだろうなぁ、昨日も同じ事言った気がするけど」
「いっつも気合入った格好だと、結構疲れるのよ? それに」
「それに?」
「こーんな気の抜けたところ、直樹にだから見せられるのよ?」
「……そっか」
そう言ってくれるのは、確かに嬉しいわけで。
5 「Can't love, no other.」
「お湯はもうすぐ沸くから、後は任せた」
「はーい了解……っと。そういえば、直樹のお父さんって、今日帰ってくるんだよね?」
ソファの前のテーブルの上には、ティーポットとカップが2つ。今朝使った分はまだ洗い桶に突っ込んだままなので、目の前には朝使ったものよりちょいと小ぶりのカップが並んでいる。
「6時ごろにはこっちに着く、ってさっきメールが来てたから、まぁ予定通りだな」
例によって温泉だけじゃ飽き足らず、伊豆近辺で飯でも食っているのだろう。これが全部会社の経費で落ちるのだからまったく楽な商売だ、とは思うのだが、親父に言わせるとこれも作家としての肥やし作りの一環らしい。であれば朔原さんだけ行けばいいものを、といつもは思うのだが、今日ばかりはそのおかげで奈緒美と2人っきりになれているので、まぁ、感謝すべきだろうな。
「それじゃ、直樹のお父さんが帰ってきたら、ご挨拶だけしてそれから帰ろうかな」
「えー、挨拶するの?」
「だって直樹も私のお父さんに挨拶してくれたでしょ? だったら私がしないわけにはいかないじゃない? っと、そろそろね」
お湯が沸いてからさらに沸かし続ける事数分、おいしい紅茶を飲むためにはこの数分を省略するわけには行かない、らしい。奈緒美が薬缶をキッチンから運んできて、茶葉の既に入ったポットへお湯を注ぐ。
「まぁ確かにそうだけど、別に後回しでもいいんじゃないか? 挨拶、っていったって電話で話しただけだし」
「直樹は嫌? 私が直樹のお父さんに会うの」
「いや、嫌って訳じゃないんだけどさ、なんか妙な喜び方しそうで、な」
なんというか、悪い意味で我が事のように喜ぶ親父の姿がリアルに想像できる。これがおふくろだったら、おふくろはとりあえず身内の俺から見ても常識人だし、普通の親の対応というのをしてくれるだろうけど、親父も、そういえば山田先生もそうだったな、妙に子供っぽいところがあるからなぁ……などと色々と考えをめぐらせている間に、奈緒美が紅茶をティーカップに注ぐ。
「あ、やっぱり時間短めにしちゃって正解だったみたいね。いつもより開く時間が短くなってる」
「そういえば、おふくろがそれ買ってきたときに『いつもの銘柄がなかったから、別のよさそうなものを買ってみた』って言ってたな」
「あ、やっぱりそうなんだ。むかーしに直樹の家にあったものと同じ感覚でやってたから、今朝はちょっと出すぎちゃってたのよね」
「へぇ……」
奈緒美の紅茶のこだわりようというのは昔からそうだったが、最近は中々にマニアックな領域に達しつつあるようだ。そろそろ俺では太刀打ちができなくなってきた、かもしれない。
「そうだよなぁ、昔はこうやって、奈緒美に紅茶を入れてもらって、2人で飲んでたよな」
「そうだねー、……あー、なんか昔のこと思い出して、変な気分」
「む……」
変な気分、というからには、要するにそっち方面の事だろう。2年前は、こうやって2人っきりになる機会があると、俺は決まって奈緒美にねだっていたから、思い出してしまうのも無理は無いか。
「……そうだな、昔はそうだった。昔、って言っても2年前だけどな」
「もう何年も前のことみたいに思うけど、ね」
「あぁ……」
しばし沈黙。といっても、決していやな感じじゃなく。
ふわりとカップから香る紅茶の香りと一緒に、2年間のあれやこれやの思い出を、ゆっくりと思い出しながら、やはり昼間の出来事のことは奈緒美に話しておかないとな、と改めて考え出していた。
「……そうだな、奈緒美には、言わないといけない事があるんだった」
5分ほど、いや10分くらいは、そうやって2人で黙っていたかもしれない。そろそろか、という決心がついたので、俺は今日の出来事を奈緒美に話す事にした。
「何?」
「奈緒美がこっちに戻ってきた日に、喫茶店で、前は別に彼女がいた、って話したのは覚えてる?」
「覚えてるけど。確か中3のときだっけ?」
「そう。で、それなんだけど、実は今日、競技場行ったときに、その彼女とばったり会ったんだ」
「……なるほど、そういうことだったのね」
意外にも、合点がいった、という表情の奈緒美。
「と、いうと?」
「会ったのは、あのジュース買ってきたときでしょ? あの後の直樹、微妙に、だけど、様子がおかしかったもの。何があったのかな、ってのはちょっと気になってたんだけどね……そっか、そういうことだったのね」
「出てたか……」
「あぁ、多分見た目にはほとんど変わりないはずよ? 私だってかすかに、ちょっといつもと違うかな? って思った程度だし」
「そっか、でもそんなかすかな事も感じ取っちゃうってのは、奈緒美、すごいな」
「私を誰だと思ってるの? 多分直樹の事なら世界で3番目に知ってるんだから」
「1番と2番は?」
「ご両親。当たり前だけど、多分直樹のお父さんとお母さんにはかなわないわ」
「いや、親父はどうだろな……案外抜けてるところがあるからな」
「普段はそうでも、子供の事になると変わるものよ? って、私もまだ子供だけど」
そうやってカップを持って笑う奈緒美の姿には、どことなく余裕すら感じられるから不思議だ。
「ま、そうかもな……、って、話がずれたな」
「別に、直樹が嫌なら、ずらしたままでもいいよ?」
「いや、いいよ。俺が切り出した話だし」
それにむしろ、あの頃の気持ち、そして今日の気持ちは、奈緒美にこそ聞いてほしかった。2年前に奈緒美と別れた直後のこと、年が開けた後の出会いのきっかけ、バレンタイン、そして3年へ上がってすぐの出来事。ある程度俺の中で整理がついたのか、時間はかかったが、すらすらと話す事ができた。
「そ、っか……」
とりあえず今日の出来事まで、あらかた話が終わると、奈緒美はそういってソファーの上で体を伸ばした。
「まぁ正直に言ってね、直樹に彼女がいてもおかしくないだろうな、くらいには思ってたのよ。ほら、直樹ってもてるじゃない?」
「え、そうかな?」
「多分直樹は自覚ないと思うけど。私と付き合い始めるちょっと前だけど、2人位かな、直樹の事が好きだー、って人がいたんだよ?」
「そうだったんだ……」
まったくの初耳だ。ついぞ告白なんぞされた事がなかったし(奈緒美にだって、俺から告白したようなものだった)、そんな事が気づかない間にあったとは。
「でも、なんでその話を私に?」
「うーん、まぁ、けじめ?」
別に思い出したくない過去、という類のものではないけれど、奈緒美との関係を考えれば微妙な事柄ではあるわけで。隠したまま、妙に後ろめたい気持ちを持ち続けるよりは、いっそ話してしまったほうが気が楽、というのもある。それに、
「奈緒美にはさ、隠し事とかしたくないな、って。もう、悲しませたりしたくないからね」
「そう……」
「あぁ」
「……ありがと。なんか、改めて、戻ってきてよかった、ってなんか思っちゃった」
そう言って微笑んでくれるだけで、俺は随分と気分が軽くなったような気がした。
「しかし、高木さん、随分とやるわねぇ……」
といいながら渋い顔になるのは、まぁ、仕方ないところだろうな。
「まぁでも、気持ちは本当、だったんだろうね。なんとなくわかる気がする。じゃぁ手段を認めるか、って言うと、これは別問題だけどね」
「……ごめんな」
「あぁ、それに関しては……直樹はあやまらなくてもいいよ。なんかえらそうな言い方だけど。その……直樹、ちょっと近くに」
「え?」
言われるままに奈緒美の隣へ。すると…
「私も、寂しい思いさせちゃったんだもんね? お互い様、だから……」
するっ、と。奈緒美はゆっくりと俺に抱きついて、腕を後ろへ。
「直樹、私と久々に会ったときから、実は我慢してたでしょ?」
「え、いや、まぁ……、まぁね」
「言ってくれればよかったのに。私は直樹になら……、ううん、直樹じゃないと駄目」
答えるように、俺も腕を奈緒美の背中に回す。
「ほんというと、私も、欲しかったから、ね、直樹のこと。だから……」
そういった奈緒美の唇を、キスでふさごう…としたまさにその瞬間
『RuRuRuRuRuRu!!! RuRuRuRuRuRu!!!』
テーブルの上においていた携帯電話が鳴り出した。
『あ…』
思わず2人で顔を見合わせた。さすがに出ないわけにもいかず、携帯を開くと、そこに出ていたのはよりにもよって親父の電話番号。
「あー……、もしもし?」
『もしもしー、父ちゃんだ。えーっとな、ちょっと予定が延びてな、日曜の昼過ぎくらいに帰る事になったから。すまんなー』
「いや、それは別にかまわないからさ、それだったらまたメール入れとけばいいじゃんよ、わざわざ電話しなくてもさ」
『いや、ほら、帰りを待ってると悪いかなーってさ、まぁそういうことだから、今晩も何とかしてくれや』
「はいはいわかりましたから」
『あー、そいやお土産何がいい? 温泉饅頭でいいか? 伊豆って結構みやげ物となるとバリエーションが無くてなー』
「温泉饅頭でもわさび漬けでも何でもいいからよろしく! それじゃ切るよ!」
ぶちり、と。返事も聞かずに切った俺の気持ちは、今回はさすがに結構賛同を得られるんじゃないだろうか。
「……直樹のお父さん?」
「あぁ、帰るのが明日に伸びるだってさ」
「あ、ああぁ、あっそうなんだ……そっかそっか。あの」
「あの! って奈緒美先に」
「いや直樹先に言って?」
「いや、あの、そのなんていうか…シャワー浴びてこようかな、とか思ったりしてえーと」
「あ、あぁ奇遇ね! 私も同じ事考えてたのほら汗とかかいちゃったし!」
「いや、まぁそれもあるんだけど……いやそれがメインだよ、メインだよ! メインだけどほら、その……」
「そ、そのえーっと……」
「……一緒に入る?」
何言ったんだ俺! と気づいたときには時すでに遅し、キャンセルができるわけも無く。まぁ、キャンセルできたとしても、果たしてキャンセルしたかは随分と疑問だけど。
「……」
「……」
「……バスタオル、取ってこないとね、それじゃ。直樹のってどこにあるの?」
「あぁ、俺のは家族分まとめて風呂の横の棚に」
「それじゃ、先に行ってて。バスタオル持って戻ってくるから」
「了解」
口にはださずとも、コミュニケーションはここまでできる、という例だというのは……まぁほとんど口に出してるようなものだしね。
「こうやってると…なんだか懐かしいね」
午後6時を結構回ったのか、徐々に外が夕焼けに染まり始めた頃、俺と奈緒美はベッドの中に2人で横になっていた。
「そうだな……、2年ぶりだもんな」
「そうだね……」
さすがに2人とも、すでに普通の体勢で横になっているだけだが、手はぎゅっ、とつないでいる。
「なんというか……、思い知らされた、っていう感じ? 私はやっぱり直樹じゃなきゃ駄目なんだ、って」
「それは体の相性的な意味で?」
「ばっ、そんな……そんな事も、あるけど」
「冗談だよ。でもそれだったら、俺も同じだよ?」
「直樹も?」
「その、体が云々だけじゃなくて、もっと深い意味で、奈緒美を知っちゃったら、もうほかの女性では満足できないというか、……もう他の人は愛せない、まぁ、そんな感じ」
多分、これを言っている瞬間が、一番顔が赤かっただろう。それを知ってか知らずか、奈緒美はにっこりと微笑みながら、寝返りを打って俺に体を預けてきた。
「直樹?」
「ん?」
「大好きだよ、これからもずっと」
「……俺もだよ」
ぴたり、とくっついた奈緒美の体を、後ろからぎゅっ、と抱きしめて、俺はそう答えた。
「こうしてもらってるのが、一番落ち着くかな……ね、もう少し、こうしててくれる?」
「いいよ。なんだったら、朝まででも」
「それも……いいかもね」
「で、それはそれとして、直樹?」
「何?」
「あたって……るんだけど」
ええ、それは重々承知しております。
「あー、条件反射というか、そういうものですから」
「本当にそれだけ?」
「すみませんそれだけじゃないです。むしろそれ以外がメインです」
「まったく……でも、今日もずっと2人っきりなんだよね?」
「その予定です」
思いかけず転がり込んできたラッキー、だよな、この2日間は。
「それじゃ特別に許可」
「では早速」
「ちょ、ちょっと待って」
といいながらこちらに向けて再度寝返りを打つ奈緒美。そして、
「最初にキスしてくれないと、いやだからね?」
「もちろん。むしろ、ずっとキスしててもいい?」
「それも……ありかもね」