――9月1日

 俺は、バスの中からぼんやりと外を眺めていた。新学期という事でどうやら体はまだ休みモードに入っているようで、少しまぶたが重い。時刻は7時30分。夏休み中なら寝ている時間だ。
 ……俺の名前は、櫻井直樹。神奈川県相模野市生まれ、16歳。俺のプロフィールを書くとすれば書き出しはこんな感じだ。ラストは、こんな感じだろう。

「中学2年の夏、彼女に逃げられる」、と。

1 「Two years after」

 バスを降り、坂道を登り、学校へ入る。学校の名前は、神奈川県立相模野高校。一応…県内有数の進学校という事にはなっている。が、それにしてはうちの学校は全てにおいて緩めだ。7時40分、他の学校ならそろそろ補習でもあってておかしくない時間だが、うちではそういったものは一切ない。だから…また俺がクラス一番乗り、というわけか。
「ふあ……」
 あくびをかみ殺しつつ、職員室へと向かう。朝のホームルームにはまだ時間がある。食堂で時間を潰そうかとも思ったが、とりあえずは教室に荷物を置いてからだ。
「あ、すみません大西先生、教室の鍵を頂きたいんですけど」
「おはよう櫻井君、いいよ、自分の教室だよね?」
 たまたま職員室の入り口で会った、物理の大西先生に頼んで、鍵をもらう。
「そういえば、1-2って2学期から転校生入るらしいよ。さっき朝の職員会議で聞いたけど」
「転校生、ですか?」
「そう。珍しい事もあるもんだねぇ」
 うちのクラスに転校生、高校で転校ってのは、中々お目にかかれない事だ。何故うちのクラスにってのは、まぁ多分偶然だろう。鍵を貰い、職員室から出て階段へ……っと、
「おあっ、あ、すみません」
「あ、ごめんなさいー……、あ、直樹?」
「? え、もしかして……奈緒美!?」
 不意にぶつかった相手は……、
「お、櫻井おはよう。あ、丁度いいや、先に紹介しとこう。今日からうちのクラスに転校生が来るぞ。こちらの斉藤奈緒美さん」
 わざわざ紹介を受けなくても、名前なんて分かっている。櫻井奈緒美、今日からうちのクラスに来る転校生は、俺の元の彼女、そして、
「……久しぶりね、直樹」
「2年ぶり……か?」
 2年前の夏に逃げられた、その人本人だからだ。

「お、もしかして櫻井とは知り合いか? なら丁度いいや、慣れるまで斉藤の面倒みてやれ。な?」
 うちのクラスの担任、国語の山田先生はそういうと、俺から鍵をするっ、と奪って、階段を上っていった。廊下に残されたのは、俺と奈緒美の2人だけ。
「えっと……」
「何?」
「……本当に、奈緒美なのか?」
「確かに、斉藤奈緒美だけど?」
「そうか……」
「どうしたの? 驚いてる?」
「驚いてない訳ないだろ! その、なんだ……」
 何を言ったものか。正直言葉が見つからない。目の前にいるのは、斉藤奈緒美。これは間違いない。違うのは、若干あの頃より高くなった背、長くなった髪、そして、うちの学校の制服に身を包んでいる、という事だけだ。
「あ、そうだ。食堂の場所、教えてくれる?」
「食堂?」
「自動販売機でもいいけど。なんか喉渇いちゃって。そこの部屋、乾燥してたから」
「そうか」
 なんともなぁ、という感じの俺。何をぼけーっとしているのだ、という感じの表情の奈緒美。
「で……どこ?」
「あぁ、あそこだけど」
「そう、ありがと」
 そう言うと、奈緒美はすっ、と食堂の方へ歩いていった。ぴん、と背を伸ばして歩くその姿も、2年前と同じ。
「奈緒美、ちょっと」
「何?」
 思わず呼び止めたのだが、何を話したものか、俺は何も考えてなかった。とりあえず……
「今日の放課後、ちょっと話があるんだけど、いいか?」
「……いいけど。私も話したいことがあるし」
「そうか、それじゃ、またあとで」
 とりあえず……その時点では、それが精一杯だった。
 あんまりにも突然すぎる。2年前は何も言わずすっといなくなり、そして今日は、こうやって突然現れるとは。

「初めまして、斉藤奈緒美です。今日からこの学校に転校してくる事になりました。よろしくお願いします」
 間違いなく、奈緒美はうちのクラスの転校生だった。山田先生の紹介によれば、今までは静岡にいたらしい。当然、今初めて知ったわけだが。
「とりあえず席は、そこの一番後ろに座ってくれ。まぁあとで席替えするけどな。んじゃ今から始業式だから、各自廊下で並ぶように。んじゃ解散!」
 先生がそう言い、俺たちは廊下へと出た。奈緒美は、と思わず目で追うと、どうやら隣のクラスの奴と話している様子。
「里美~、元気にしてた?」
「奈緒美も元気~? でも同じクラスになれなくて残念だったよね~」
 あれは確か……相原里美だ。確か、奈緒美の幼馴染だったか。
「斉藤さん斉藤さん、俺横田。横田敦ね、よろしく~」
「あ、よろしくー」
 さっそく声を掛けてる奴もいる。ったく、奈緒美には彼氏が……ん、そういえば。

 今の奈緒美には、彼氏はいるのだろうか?

 始業式の間、俺はずっと奈緒美の事を考えていた。そもそもなぜ戻ってきたのか、それもよりによってこの高校に。いや、俺がこの高校にいるって事は知らないとしても、いや知ってて移った可能性もある。だがそれじゃ理由がわからない。そういえば奈緒美も放課後話が、とは言ったが、何を話せばいいんだ? 何故戻ってきたか? そもそもなぜ静岡なんかへ行ったか?
 いや……それは大体心当たりがある。

 それは2年前の夏休み。今でもはっきり覚えてるが、8月の15日、確か終戦記念日だ。
 その頃俺と奈緒美は付き合っていて、少し前の俺の誕生日、俺は誕生日のプレゼントに、とお願いして、奈緒美をHをさせてもらった。プレゼントに、というのはちょっと馬鹿げているといえばまぁ、たしかにそうかもしれない。その後も何回かHをしたが、あるとき事の後に喧嘩になった。原因が何だったかは、今となっては思い出せない。思い出せないくらいだから、ごく些細な事だったのだろう。ともかく、喧嘩はヒートアップしていき、
「なに、それじゃ私と付き合ったのって、最初から体目当てだったわけ? もらう物をもらったら後はどうでもいいってこと?」
「あぁそうだよ! 最初っからそのつもりだったよ!」
「……そ、そう」

 それまでだった。今からすれば、なぜあんな事を言ったのか。当時は今と比べれば、随分とヒートアップしやすかったから、それが災いした のかもしれない。だが、本心ではないにしろ、いや本心じゃないなら尚更、あんな事はいうべきじゃなかった。
 それから1週間はお互い連絡をとらず、ようやく謝る決心がつき、家をたずねた時は、既に奈緒美は引っ越した後だった。担任からは「本人の希望だから」と引越し先も教えてもらえなかった。
 要するにそういうことだ。物の弾みとはいえとんでもないことを俺は奈緒美に言い、その結果彼女は俺の前から去っていった。…ならば何故、再びここに戻ってきたんだ?

 放課後、帰ろうと昇降口へ向かうと、靴箱の前で奈緒美が立っていた。
「話があるんじゃ、なかったの?」
「あ……、忘れてた」
「あのね……。まあ、いいわ。で、どこで?」
「学校を出たところにある喫茶店にしよう。いいか?」
「奢ってもらうからね」
 腰に片手を当て、さも当然、というふうに言う奈緒美。
「あぁ。それじゃ……行くか」
 靴を履き、手でも握ろうか……と一瞬思い、やめた。まぁ、了承しないだろうしな。

 喫茶店「COTTON ROSE」は、学校を出てすぐの所にある。値段は安め、それでいてそれなりにいい紅茶をだす、という事で女子には人気の店 だ。俺の目当てはここのケーキで、時々女子の少なそうな時を狙って、ここのケーキセットを頼む。
 俺たちが座ったのは、いつも俺が座る窓際のテーブル席。いつもは一人だが、今日は目の前に奈緒美がいる。テーブルの上にはケーキが2つ。当然1つは奈緒美の分だ。
「ふーん、中々いいお店じゃない?」
「まぁな」
 しかし、今日は2学期始業式の日ともあって人が多い。こちらをちらちらと見る視線も多いようだ。
「で、話って何?」
「ん……まずは奈緒美の話から聞きたいんだけど」
「私の話? 呼んだのは直樹じゃない、まずは先に話してもらわないと」
「そうか、それもまぁ、そうだな……」
 一口、紅茶に口をつける。さて……どう話し始めたものか。
「……静岡だっけ、いままでいたのは」
「そうよ。正確に言うと浜松市」
「親の転勤?」
「そうね。お父さんが転勤するから、最初は単身赴任の予定だったんだけど、無理言って連れて行ってもらったの」
「それって……、やっぱり俺のせいか?」
「分かってるじゃない?」
「まぁ……な」
 それ以外、考えられないしな。奈緒美は苺のショートケーキにフォークを入れ、口へ運ぶ。そういえば、苺のショートケーキは確か、奈緒美の好物だったな。
「今でも好きなんだな、苺のショートケーキ」
「覚えてたんだ」
「もちろん。ついでに言えば、好きな紅茶はキーモンの特級、だったな」
「……よく覚えてるわね」
「当たり前だろ?」
 忘れろという方が無理な話だ。仕草、立ち振る舞い、声、嗜好。奈緒美の事ならすべて、2年たった今でもしっかりと、覚えている。

「そういえば、直樹ってもしかして、今、彼女いないの?」
「今の所はな。それが何か?」
「ん……、別に」
 そういうと、奈緒美はふ、と視線を窓の外へ移した。質問の意図を図りかねているところに、
「一応聞いておきたいんだけど」
「何を?」
「2年前の事」
 やはり来たか。
「改めて聞いておきたいんだけど、私とつきあってたのは……その、やっぱり……体が目当てだったの?」
「まさか。そんなわけ無いだろ」
 若干恥ずかしそうにそう聞く奈緒美に、俺は迷うことなくそう断言した。
「本当に?」
 俺の目を見据え、そう問いただす奈緒美。
「本当だ」
 こちらもまた奈緒美の目を見て、そう、はっきりと答えた。
「神にでも誓える?」
「ご先祖様でもいいぞ」
「両親に、でいいわ。そっちの方がリアルだし」
「まぁ対象が誰であれ……同じだ。あのときの俺は、本気で奈緒美のことが好きだったし、今でも……その気持ちは変わらない。……抱ければいいやとか、そういう気持ちじゃなくな。だからあのときのあの言葉は……本当に、ごめん」
「……そ、そう」
 と答えるなり、奈緒美はまた、窓の外へ視線を移した。

 5分、あるいは10分くらいたっただろうか、話を再開したのは奈緒美のほうだった。
「……正直に言うとね、あの時はあんな事言われて、がーって怒っちゃって、それでタイミングよく転勤の話があったから、そのまま引っ越しちゃったけど。向こうで暮らし始めて半月くらいたって、なんというか……無性に寂しくなっちゃってね。でもあんな事言われて、喧嘩別れしちゃった手前、こっちからよりを戻しに行くのもちょっとな、って思っちゃって。もし本当だったら……そんな癪な話って無いでしょ? それに、他に私を好きになってくれる人を探して、その人と付き合っちゃう方がいいかなー、なんて思ったりもしたし、ね」
 そういい終えると奈緒美は、おそらくもう冷めてしまったであろう紅茶のカップに口をつけ、残りを一気に飲み干した。
「まぁそう思って、まぁちょうど告白されちゃったりもしたから、向こうの人と付き合ってみたんだけど、なんと言うか、しっくりこなかったのよね。好きだ愛してる大事にするよとは言うんだけどそれ本当? って感じ。で……、やっぱり直樹じゃなきゃだめなのかな、なんて思っちゃったりして。あーんな事言われた割に、自分でも不思議だけどね」
 あーんな事、にイントネーションを置いて喋ってはいたが、それでも不思議と、落ち着いた顔をしていた。
「それで、お父さんがこっちに戻ってくるって事になって、どうせこっちの大学を受験するつもりだったから、一緒に戻ってきて。最初は、直樹がどこの高校に通ってるか調べて、同じ高校に移ろうかなー、とか思ったんだけど、もし彼女がいたらどうしようかな、とか思って。もしそうだったらさびしすぎるなーって思って、それじゃいい学校に、って事でこの学校選んだんだけど……、編入してみたら直樹がいて、なんていうか……うれしかった」
「それは……ありがとう」
「でも正直言うと、さっき彼女がいない、って聞くまで、怖かった。もし彼女がいたら……直樹は同じクラスに居るのに、同じクラスで、学校に居る間はずっと直樹の事が見えるのに、隣に別の女の子がいたら……」
「……」
「……その分、なんていうか、直樹の返事聞いたら……何でだろ、ほんとは、いろいろ探りを入れてみたり、2年前の事もっと謝ってもらおう、とか考えてたんだけど、どうでもよくなっちゃった。なんていうか……惚れた弱み、ってやつ?」
 さすがに照れくさくなったか。少し斜め上を向いて、にやっ、と奈緒美は笑った。
「まぁ、なんていうか……。私はやっぱり2年前と、ううん、2年前よりもっと、直樹が好きなのよね。どうしようもないくらいに」
「……それは、よかった」
 そう、本当に。
「そういうわけだから直樹、また私と……」
「待った」
「え?」
 2年間のブランク。その原因を作ったのが俺なら、やはり俺がけじめをつけておくべきだろう。
「奈緒美、2年前は、ごめん。それと……もし奈緒美がよければ、また俺と、付き合ってくれないか?」
「……駄目だなんて、言うわけがないじゃない?」
 今度はまっすぐこちらを向いて。微笑んだ奈緒美の瞳には、うっすらと涙が光っていた。

「ところで」
「ん?」
 お互いが2杯目の紅茶をオーダーし、運ばれるまでの短い間を、窓の外を眺めてつぶしていると、思い出したように奈緒美が俺に向かって言った。
「さっき直樹、私が彼女はいないの? って聞いた時、『今のところは』って言ったわよね?」
「あぁ、そう言ったけど?」
「今のところ、ってことは、前はいたって事?」
「……あ」
 思わず出てしまったのか。
「えーとその……」
「どうなの?」
「……言わなきゃ駄目か?」
「私だって正直に言ったんだからね?」
「……中3のときに半年ほど……」
「……。念のために聞いておくけど。その子とは今は何ともないのよね?」
「勿論!」
「それなら、まぁいいわ」
 と言うと、奈緒美はバッグを持って席を立ち……なぜか俺の隣へ。
「まぁ本当ならいろいろとしてもらおうかと思ったんだけど、おあいこだし。このくらいで勘弁してあげる」
 というなり、俺の襟をつかんでぐいっと引っ張り、思わず目をつぶった俺に
「……!」
 唇にその……柔らかい感触が!
「ご馳走様でした」
「あ、あのー、奈緒美さん?」
「何?」
「強くなったね……」
 ふふん、と笑ったその顔は、まさに2年前と同じ。少し勝気ないつもの奈緒美、そのままだった。